ファンダメンタリズムとエヴェレット解釈

愚痴が一番上にあると見栄えが悪いのでネタ文章

肩が赤いと言われそうですが、前々から色々と触れていたものの
文章化していなかったネタを引っ張り出したので古臭さはご勘弁ください

ファンダメンタリズムというとあまり聞いたことが無い気がしますが
インテリジェントデザイン論というとああアレか、となります

古くはダーウィンにまで遡り進化論と衝突した創造論から始まる
いわゆるキリスト教的、ユダヤ教的な創造主についての解釈で
昔は進化論の否定をしていたものの科学的実証などとの食い違いから
進化論までは否定しないが、と一歩下がった(ように日本人からは見える)理論で
進化の過程に創造主の介入があり今の人間や地球、はては宇宙があると言うものです

化石は化石の状態で神様が埋めたものです、と言う解釈もあるそうですが
そこまでは言わないものの進化の過程をさして
毎日少しずつ陸に出した金魚は何世代で両生類になるのか
どれだけの間高い場所の草を食べつつければキリンが生まれるのか
と進化論における自然淘汰を超えた進化に創造主の意図的な介入を見い出したものが
いわゆるインテリジェントデザインで、それを指してさらに
例えば水と氷でもし他の固体のように氷の方が体積が小さかったら氷は沈み
地球の海の底に氷河が堆積してしまい生命が生まれなかった、等
物理分野まで広げて宇宙、あるいはそれを超えた全てに創造主を見い出したりします

このファンダメンタリストと呼ばれる人たちは、比較的科学知識があったり
場合によっては科学者だったりするわけなのですが
この創造主の証明、というのはいわゆる悪魔の証明と一緒で(と言うと怒られそうですが)
無かったことを証明することが出来ないが、あると言う理論体系が既に否定される事自体を
否定している為に反証を行なえない状態、という困った理論なんですね

この有ると仮定すると色々解明できるから有るんじゃない?否定できないよね、というのは
とてもとても難しい問題を孕んでいて、いろんな場面で遭遇して、実際に疑似科学を超えて
科学の分野に入り込んだり、実際に正しいのかどうかで平行線の論争を生んだりします

量子力学におけるエヴェレット解釈とコペンハーゲン派の解釈について
過去にこのページでも何度か触れた気がするのですが
有名なシュレディンガーの猫のパラドックス、に於いて
死んだ猫と生きている猫が重ね合わせの状態で存在し、観測した時に収束する
観測による収束がコペンハーゲン派の解釈、であり
死んだ猫の世界と生きている猫の世界があり、それらは並列に存在しどちらかに自分が居る
と言うのがエヴェレット解釈です

昔、自分は例えばこの猫の装置に私が入り、外に繋がるブザーがあって
実験を見に来た観測者が「生きてる?」と聞いた際に私がブザーを押さなかったら
死んだのか、生きているのに押していないのか区別が付かない、外では収束せず
自分が生きていると私が認識しているからそれは収束であるものの
死んだ自分は自分を認識できないのでどの時点で重ね合わせが収束したのか
説明できないのでは?と思っていましたが
(今調べて知ったのですがこれをウィグナーの友人のパラドックスと言うそうです)
猫や人ほどマクロならそれは孤立系ではなくて
デコヒーレンス時間という極小時間を越えて重ね合わせが起こらないとする説が
コペンハーゲン解釈で出ておりさらにはファインマンの解釈という別の解釈のもあるそうで…

と…話題がそれましたが
昔は上のデコヒーレンス時間について知らなかったので(というか発表されてなかった)
観測により世界が収縮する、観測者問題という2つの仮定があるコペンハーゲン解釈より
無限に世界が重なっていると1つ仮定するだけで全てを解釈できるエヴェレット解釈の方が
仮定が少ない分優れているのでは?とこのページで書いてしまいましたが
(実際にはデコヒーレンスを持ち込むことでシュレディンガーの猫の観測者問題も説明できる)

それはそれとしても、解釈と言うのはある現象をどう見るか、という事で理論とはまた別で
どちらが正しい、という理論的観点からは論じることが出来ない、のだそうです

で、光が存在確率の波と粒子の両方の性質を持っている、という事はご存知でしょうが
光のみならず全ての粒子が存在確率の波の性質を持っている、とする理論があります
いわゆる超弦理論、超ひも理論で
この時この世界は複数の次元(11次元とも26次元とも言われますが)によって作られており
そこに存在する確率の波が3+1次元に現れ、知覚できる状態になっている、という物ですが
知覚出来ない次元の存在を仮定しており科学ではない、という否定も根強くありました

この時宇宙のモデルをスマートに証明できる、という事がよく引き合いに出されました
これとファンダメンタリズムに於ける創造主が居た方がスマートという話の違いは
一体どこにあるでしょうか

などと言うといろいろな人が顔をしかめそうですが
実際の所は結局「実験>観測>解釈>仮説(理論)」を積み重ね
今後に於ける多々の実験における結果が全てこの仮説を満たしていれば理論であり
実験と観測を積み重ねられないものはあくまで解釈と仮説の域を出ない、という事です

詰まるところ創造主が居るかどうか理論付けるには一回きりのこの世では
観測の積み重ねが足りず、それは仮説や疑似科学の域を出ることが出来ない

と言うのがこの話の締めくくりだったりします
科学の分野では創造主は居るとも居ないとも言えないよ、と言うことですね