呪術と唯物史観

何百年という長い間続いたことには呪術的な意味が宿る

例えば何百年もの間女人禁制で誰も女性が登らなかった山があった
本来無意味なその禁制行為が長く長く続くことでお呪いとして意味を成す
それはそれを信奉とまでは行かなくても多少心に留めた事がある人にとっては
破ることがなんとなく気持ち悪い、という影響を与える
信奉者にはわざわざ犯さない事が美徳である、と感じる程度には影響があるだろう

しかしこの山を女性が登ってしまった
どこかの学校の教師が女人禁制の山に対して平等に反すると抗議し
管理寺での問答のあと一旦は引き下がったものの後からこっそり登ってしまったのだ
そのときにお寺の人が確か「結界が破られた」と言った気がする

破ることがなんとなく気持ちが悪い、という結界は
この事で確かに作用しなくなったに違いない

面白いのはこれを破ろうとしたのが教師の連盟だった事
この教師たちが信奉しているのは恐らく「唯物史観」だろう

唯物史観とはそこにある物のあるがまま以外の価値を認めないことだ

例えばただの割れた碗を利休が面白いと言っただけで価値が上がる
そういう意味のない価値を唯物史観者は最も嫌う
共産主義の下に於いてはすべての碗は何cc入るか、丈夫か、原価いくらか
そういったただの物としての価値以外のものを誰かが(大抵はブルジョアジーが)付加し
(プロレタリアートから)余分に搾取するその構造を嫌う

だから共産主義ではキリストと十字架を模した木像もただの樹の塊というし
ご神木なんてのも認めない、それはただの樹である、と言う

だがしかし、無意味に見える事柄でも、余りに長く重ねられれば意味を持つ
唯物史観を信奉しない人はいくら只の木の塊と分かっていても
キリスト像を薪にくべたりしないだろう、なんとなく気持ちが悪いはずなのだ

日本でもごみの違法放置が多い場所に小さな神社を建てたらすっかり無くなったとか
簡単な木組みの鳥居や神社の鳥居のマークを書いただけでも効果があったとか
一般的にはモラルが無いといわれるだろう相手にさえその手のお呪いが効いたりする

一応名目上4千年以上続いていると言う男系天皇を廃するというのは
その手のお呪いのひとつを失うと思ったほうが良い、と思う
今迄だって女性天皇はいたが、女系天皇はいなかったのだ
今回は偶々男児が生まれたが、生まれなかったとしても、女系女性ではなく
男系女性天皇を立てて、男系男性天皇が生まれるのを待つ必要があったように思う

この手の話題をする際に今まで続いたお呪いとしての蓄積を失うことの意味のようなものに
言及しないのは手落ちかなと思うんだけど、どうなんだろうか
それとも世の中には唯物史観視点が当たり前にあふれているんだろうか?

またまた拍手

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8月25日のweb拍手解析

5時

2

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5時

Vicは日本が強すぎるくらい強いですよー、幕末MODとか入れるとおもしろくなる感じ(重いけど)

やっぱり「幕末~開国~明治維新~列強入り~日英同盟」
辺りから日本が世界と絡みだすので興味がでてきます
EUも面白いんでしょうけど日本は、というと中々…
何年がかりで布教して国教を広めていくと言うのも興味深いんですが
日本って国教は儒教なのに宗教寛容度がMAXで地方は仏教が支配している
寺社勢力国家なんですよね…確か

paradoxのゲームってモンスターストラテジーというか
世界規模でしかも時代ごとにそこそこ共通のマップやルールを扱っていて
ずーっと昔から今までを遊べるので、凄いなあと思います
日本だったかコーエー辺りが三国志から青き狼白き女鹿から
信長の野望から大航海時代辺りまでが全部1パックで世界分ある、というと
ん~無茶っぽい、と思いますね

電撃戦

日本語で電撃戦というとすごい速さで終わらせた結果
みたいな印象がありますが、戦術の一つです

余談
他に誤解を受けやすいものに肉弾戦があります
これは二次大戦時代に日本軍が呼んだもので
現在は浸透戦術という名前が付いています
電撃戦は浸透戦術の特殊な運用法?かな?

一次大戦の頃、司令部は後方に位置して「凸」みたいなコマを
地図に配置して電報を聞いてはT字棒で押して
**をn時方向へ進めよ、とかそんなステロタイプまでは行かずとも
司令官が命令をだすため細かい戦況の変化がわからないという
欠点がありました

それに加えて銃が発達し、軍隊を突撃させても一方的に負けるようになり
塹壕戦という隠れる穴を掘って隠れて戦う方法が一般的になり
司令官にとってはそれは戦線の膠着にしかならず
戦争は塹壕を掘って互いに撃ち合うだけの消耗戦になると思われていました

そこで後方大隊本部から前線の分隊長に指揮権を移譲し
十数人からなる分隊が敵塹壕の隙を突いて内部へ浸透
これを前線全面において分隊が各々敵塹壕の隙から入り込み
部隊全体をかく乱してこれを戦闘不能に落としいれる、
という浸透戦術という方法が編み出されました
ちなみに一番浸透戦術に重きを置いていたのは日本軍だと思います

元々はブルシロフというロシアの将軍が編み出した戦法で
その後ドイツで取り入れられ、フーチェルという人が
第一陣突撃分隊に各自数日分の補給物資などを持たせ浸透
先陣の到着する先々の敵へ前線から砲撃を繰り返し応戦をかく乱
そのまま奥深く敵後方大隊本部まで近づくことが可能になりました

これは砲撃による支援+浸透部隊の機動力という組み合わせで行なわれ
これを大きく、爆撃機による支援と戦車との組み合わせで行なったものが
電撃戦だそうで、この頃になるとさらに機甲隊ごとに無線で情報を受け渡し
多々ある浸透可能な場所から入り込み、あとから歩兵全体で制圧を行なう際は
装甲車などに乗って歩兵を移動させることで浸透戦術の頃はできなかった
大きな奥行きを一気に制圧する事が可能になりました

・・・多分、俄か仕込みなので

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前線から一点突破し内部の守りの浅い部分を蹂躙する戦車
それによりヴォルカ河を迂回されスターリングラードへ撤退するはずの
ウクライナ周辺軍が背後を奪われ退路を阻まれた形
補給を閉じられ退却先を失った兵たちにあとから制圧歩兵が詰め
片っ端から包囲殲滅していきます
要所(バクー)を得る事が勝利条件の為ロンメルを南下させましたが
本編シナリオでソビエト壊滅を狙うならロンメルに北から河を渡らせた上で
南下させてヴォルカ河を利用し一気に全てを包囲することも可能?!

一方で浸透戦術への対策も作られていて
縦に深く何重にも陣を取り、相手の攻撃を受けつつ下がりながら誘導し
最終的に最も防御の硬い砦の正面までおびき出し包囲殲滅するという
縦深防御という戦法も編み出されました
本来ならスターリングラードまでウクライナ駐屯軍が下がり
ヴォルカ河の利を生かしてスターリングラードに立てこもるのが
前回自分が立てた作戦っぽいですが…難しいのでしょうね

ファンダメンタリズムとエヴェレット解釈

愚痴が一番上にあると見栄えが悪いのでネタ文章

肩が赤いと言われそうですが、前々から色々と触れていたものの
文章化していなかったネタを引っ張り出したので古臭さはご勘弁ください

ファンダメンタリズムというとあまり聞いたことが無い気がしますが
インテリジェントデザイン論というとああアレか、となります

古くはダーウィンにまで遡り進化論と衝突した創造論から始まる
いわゆるキリスト教的、ユダヤ教的な創造主についての解釈で
昔は進化論の否定をしていたものの科学的実証などとの食い違いから
進化論までは否定しないが、と一歩下がった(ように日本人からは見える)理論で
進化の過程に創造主の介入があり今の人間や地球、はては宇宙があると言うものです

化石は化石の状態で神様が埋めたものです、と言う解釈もあるそうですが
そこまでは言わないものの進化の過程をさして
毎日少しずつ陸に出した金魚は何世代で両生類になるのか
どれだけの間高い場所の草を食べつつければキリンが生まれるのか
と進化論における自然淘汰を超えた進化に創造主の意図的な介入を見い出したものが
いわゆるインテリジェントデザインで、それを指してさらに
例えば水と氷でもし他の固体のように氷の方が体積が小さかったら氷は沈み
地球の海の底に氷河が堆積してしまい生命が生まれなかった、等
物理分野まで広げて宇宙、あるいはそれを超えた全てに創造主を見い出したりします

このファンダメンタリストと呼ばれる人たちは、比較的科学知識があったり
場合によっては科学者だったりするわけなのですが
この創造主の証明、というのはいわゆる悪魔の証明と一緒で(と言うと怒られそうですが)
無かったことを証明することが出来ないが、あると言う理論体系が既に否定される事自体を
否定している為に反証を行なえない状態、という困った理論なんですね

この有ると仮定すると色々解明できるから有るんじゃない?否定できないよね、というのは
とてもとても難しい問題を孕んでいて、いろんな場面で遭遇して、実際に疑似科学を超えて
科学の分野に入り込んだり、実際に正しいのかどうかで平行線の論争を生んだりします

量子力学におけるエヴェレット解釈とコペンハーゲン派の解釈について
過去にこのページでも何度か触れた気がするのですが
有名なシュレディンガーの猫のパラドックス、に於いて
死んだ猫と生きている猫が重ね合わせの状態で存在し、観測した時に収束する
観測による収束がコペンハーゲン派の解釈、であり
死んだ猫の世界と生きている猫の世界があり、それらは並列に存在しどちらかに自分が居る
と言うのがエヴェレット解釈です

昔、自分は例えばこの猫の装置に私が入り、外に繋がるブザーがあって
実験を見に来た観測者が「生きてる?」と聞いた際に私がブザーを押さなかったら
死んだのか、生きているのに押していないのか区別が付かない、外では収束せず
自分が生きていると私が認識しているからそれは収束であるものの
死んだ自分は自分を認識できないのでどの時点で重ね合わせが収束したのか
説明できないのでは?と思っていましたが
(今調べて知ったのですがこれをウィグナーの友人のパラドックスと言うそうです)
猫や人ほどマクロならそれは孤立系ではなくて
デコヒーレンス時間という極小時間を越えて重ね合わせが起こらないとする説が
コペンハーゲン解釈で出ておりさらにはファインマンの解釈という別の解釈のもあるそうで…

と…話題がそれましたが
昔は上のデコヒーレンス時間について知らなかったので(というか発表されてなかった)
観測により世界が収縮する、観測者問題という2つの仮定があるコペンハーゲン解釈より
無限に世界が重なっていると1つ仮定するだけで全てを解釈できるエヴェレット解釈の方が
仮定が少ない分優れているのでは?とこのページで書いてしまいましたが
(実際にはデコヒーレンスを持ち込むことでシュレディンガーの猫の観測者問題も説明できる)

それはそれとしても、解釈と言うのはある現象をどう見るか、という事で理論とはまた別で
どちらが正しい、という理論的観点からは論じることが出来ない、のだそうです

で、光が存在確率の波と粒子の両方の性質を持っている、という事はご存知でしょうが
光のみならず全ての粒子が存在確率の波の性質を持っている、とする理論があります
いわゆる超弦理論、超ひも理論で
この時この世界は複数の次元(11次元とも26次元とも言われますが)によって作られており
そこに存在する確率の波が3+1次元に現れ、知覚できる状態になっている、という物ですが
知覚出来ない次元の存在を仮定しており科学ではない、という否定も根強くありました

この時宇宙のモデルをスマートに証明できる、という事がよく引き合いに出されました
これとファンダメンタリズムに於ける創造主が居た方がスマートという話の違いは
一体どこにあるでしょうか

などと言うといろいろな人が顔をしかめそうですが
実際の所は結局「実験>観測>解釈>仮説(理論)」を積み重ね
今後に於ける多々の実験における結果が全てこの仮説を満たしていれば理論であり
実験と観測を積み重ねられないものはあくまで解釈と仮説の域を出ない、という事です

詰まるところ創造主が居るかどうか理論付けるには一回きりのこの世では
観測の積み重ねが足りず、それは仮説や疑似科学の域を出ることが出来ない

と言うのがこの話の締めくくりだったりします
科学の分野では創造主は居るとも居ないとも言えないよ、と言うことですね

歴史に詳しくなった

と言うにはちょっと元が無知すぎたのですが
(ドイツとフランスどっちが東でどっちが西にあるかさえ知らなかった)
なかなか多少二次大戦辺りの歴史と地理に少しだけ詳しくなりました
特にまったく知らなかった西洋史について
多少なりとも知る機会が出来たのは良かったです
二次大戦時代だけですが

例の方法

友人に聞いたら知らなかった程度で実は非常に有名な可能性があって
(この方法自体元々書籍から得た知識で前述のネタのように自分で考えたわけじゃないので)
すでに有名な事をまるで自分だけが知ってるかのように得意になってる可能性がある
だとしたらとても恥ずかしいのだが…

中学時代「例の方法」というのが仲間内で流行った
というか自分が仲間内に教えて流行らせたのだが
試験問題における解き方の方法論で

ある選択肢問題を作る際に、出題者は正答を知っており、そこから誤答を作るので
Aという正答、BCと言う誤答を用意した三択の場合、それらの関係は
clip_1 
というAからB,及びCを連想したツリー構造になる、だから回答の中で例えば

HTMLにおけるページでクリックするとページに移動する機能をなんと言うか
「ハイパージャンプ」「ハイパーリンク」「クイックリンク」

と三択があった場合、その中心にある選択肢
ハイパー と リンク が被る「ハイパーリンク」が正答である可能性が高い
という物だ、これは5択でも同様で
clip_2
の様に全体を見渡した時に中央と思われる要素Aが正答である可能性が高い

この方法は代々木ゼミナールで講師をしていた人が書いて
参考書ではなく一般文庫で売られていた本から得た知識で
これを書籍では「例の方法」としていた為、友人たちの間でも「例の方法」と呼ばれました
ちなみに友人に教えた時は「分からない問題をランダムで埋めるよりこの方法」
「例の方法と違った回答の場合よく見直す」と話しました、あくまで補助ですね

しかし残念な事に学校のテストでは非常に適用率が高かったこの方法ですが
公立試験やアチーブメントテストなどでは対策を取られたらしく
過去問では結構通用したものが近年の問題では通用しない事例が増えていました
(書籍が出ている位ですからそれなりに有名だったのでしょう)
つまり問題を作る時にA>B>Cと派生させてからあえてF<B>Eと作り
Bを正答に偽装するような作りやC<A>BからC>D>Eの様に
中央を判断出来ない作りにする問題が増えていました

ただ高校や大学で友人に話した際には誰も知らなかったし
その頃も学校のテスト程度ならこの方法が通用し続けたので
知ってる人は知って居るが知らない人は全く知らない類の物だったのだろうと思います

非生産的な思考実験

私はソフィストというか、生産的でない思考が好きで
ボンヤリ時間があると色々考えてしまう
そして思考停止型の理想主義で机上の論理なので
バラシにはよく現実が分かってないといわれてしまうのだが

物理の先生があるクラスでドップラー効果について生徒に聞き
「音が伸びる」と答えた生徒に対して「じゃあ音が伸びるってどういう事なの」
といってクラス全体に聞いて誰も答えられなかった、という話を聞いた

その話を聞いた自分は「録音したテープを伸ばすのと一緒」と答えた

で、その話をしてくれた人がその先生にそう言ったらしいのだが
先生は面白いとは言ったものの納得はしなかったらしい
未だにその事についてその物理の先生に弁明したくなる

テープには音素という音の素子が記録されていてテープが伸びると音が伸びる
つまりドップラー効果は音素を撒き散らす物体が移動することで
前方向には音素が密になり、後ろ方向には音素が疎になり
人間の耳は音素密度を音の高低として捉える器官なので
音が移動するとドップラー効果がおきる

無論音素というのは造語というか、適当な説明で
本来なら周波数の話を持ち出さなければならないところを
光の粒子と波の変換をヒントに説明したものだ
この説明だと音速を超えたときの説明や
光のドップラー効果も説明できるので気に入っているのだが
弁明をする機会なく気にしつつも13年ほど経ってしまった

ほかにも小学生の頃の体験と後で聞いた話も
とても何というか、どうにかなってしまうような焦燥に駆られる

算数でつまずく子供の話で、足し算引き算掛け算は良いのに
割り算で駄目な子は駄目になり、次が分数、そして次が分数の割り算
という話を聞いたときに思った事なのだが
(割り算でつまずく子の実情を知らないので机上の論理だが)
小学生当時を思い出してみると

10を2で割る、といってりんごを10個用意し二つに分けて5個という説明
この説明のときはまだ良い
(二つに割る、で6と4に分けてしまわないのかと言う部分もあるが)

じゃあ5を2で割ったら、と言うときにまず学校では「2余り1」と教える
この時点でもう分からない気がするが確か学校では

  2
2)5
  4
  1

という例の計算の仕方を教えるだけだった筈だ
で、分数と言う概念ができた3年生でこれを「2と2分の1」と言う筈だ

そもそも2余り1と言う考え方は何なんだろうか、と考えるに
「10割る2」を10を2で割ると考えているところがおかしい事に気づく
多分この「余り演算」と「例の計算の仕方」を考えた人は
逆に考えだったはずなのだ

10の中に2が幾つ入るか、と考えると
2、2、2、2、2で5つ で5の中に2は 2、2 で2「余り1」なのだ
割り算は何かをいくつかに分ける計算ではなく
幾つ含まれているかを数えるもの、と考えたのではないだろうか

5の中に2、2で余りの1は「1の中に2が幾つ入るか」だから
2を2つに分けて1、これが1個入っているので「2分の1」とした
これなら例えば5割る3でも「5の中に3が幾つ入るか」だから
3が一個で余り2、そして2の中に3が幾つ入るかと考えて
3を3つに分けて1個、これが2個入るので「3分の2」なのだ
分けて元の数につめるのが分数と余り演算なのだ

こう考えると例の計算の仕方も理にかなってくる

  2
2)5
  4
  1

これは5に2が2個入り4、引いた余りが1なのだ
この方法なら分数の割り算も合点がいく

5 割る 3分の1 は  5 の中に 3分の1 が幾つ入るかだから
3分の1が 3個あると 1 になる
5に 1 は 5個入っているので 3個が五回の合計15個入っているのだ

だがこの方法は算数のレベルでの説明の延長であって
困った場合が出てくる、例えば

5 割る 3分の2 は 5 の中に 3分の2 が幾つ入るか
3分の2が 3個あると 2 になる
5に 2 は 2個入って 余り1 3個が2回の合計6+余り1
ここで

余り1 に 3分の2 は 1 の中に 3分の2 が 幾つ入るか

と言って
5 を 4と1 に分けて 4に3分の2が6個 と 1に3分の2が1個 で 余りが3分の1
だから7余り3分の1と言った場合がややこしい

結局「余り演算」は「例の計算」を説明できるが
分数との計算になると突然に合点が行かなくなる
5割る3分の2の答えは7と2分の1じゃなければならないのに

この場合どういう解決方法がいいのだろうか
と、ずっと考えたりしていた

あ、基本に戻って考えたら「幾つ入るか」だから
5の中に 3分の2 が 1,2,3,4,5,6,7個 で
余ってる 3分の1の中に 3分の2 が 幾つ入るか だから
3分の2を 二個に割ると 3分の1 だから 2分の1個
で、7と2分の1じゃないか

書いてるうちに気が付いた、合ってるじゃないか
これで例の計算の仕方その2「分数の割り算は分母と分子をひっくり返す」の真意
(分母分の1が分子個存在し、それが幾つ入るか数えるから)が答えられるじゃない

読んだ本

読んだ本
 凶骨の夢 京極夏彦

姑獲鳥、魍魎、凶骨と読んで思った事は
この人は多分広く浅くの物凄い広い版の知識を持つ人で
本を書くときに首っ引きにネタに使う分野を調べて掘り下げて書いているのかな?とか
掘り下げ方が微妙に不自然な気がするんです
元ネタを広く取ることで読者に「ああ、聞いた事がある」と思わせるのが狙いなのかな?とか

個人的には榎木津の超常的な能力は閃き以上で描かれて欲しくないなぁと思ったので
凶骨において大切な部分を担ってしまうのがなぁと思いました

以下追記

続きを読む

国家の状態

某所でキューバが話題になって
社会主義と民主主義が対になっているように思われているのを見て
すごく昔ここのページで共産主義と社会主義の違いやらなにやら
いろいろ知ったけど面白くないだろうから書かないと言ったけど
多少面白可笑しく書ければなと
にわか知識なので間違いかもなので話半分に聞いてください

国の状態を表す主な要因として3軸あって

独裁主義<>民主主義
無政府主義<>国粋主義
中央計画経済<>自由市場経済

民主主義の対は独裁主義であって社会主義、共産主義ではないです
社会主義はここで言う中央計画経済の軸が計画経済寄りの国で
共産主義は社会主義からさらに無政府主義へ寄った国を指します

社会主義的な国は現代にもいくらでもありますし
実現はしませんでしたが、共産主義は最終的には独裁せず
国は資本主義的に限界に達して社会主義化し共産主義独裁を経て
民主的共産主義に至る、と共産主義者は説いていました

本来の意味での右翼左翼も、国粋主義・無政府主義の軸を指すもので
社会主義とはまた別です

例えば国家社会主義労働党、なんて漢字で書くと一見左よりに見えますが
ナチスドイツといえば国粋主義の党です
国家社会主義は国粋主義で中央計画経済です

同様にイギリスのブレア首相なんかの労働党は
社会民主主義という民主主義で中央計画経済の党です

想像してごらん、国境なんて存在しないと
なんてフレーズで有名なジョンレノンは当時左翼のくくりに当てはまらず
新左翼などといわれましたが
包括的なこの軸表に従えば左翼的、つまり無政府主義を指します

大きな政府小さな政府というのもこの軸であらわせば介入規模なので
大きい=計画経済、小さい=市場経済です

ここで重要なのはどの軸をどこに重きを置いているからといって
それが優劣をあらわさない、という事です

経済規模の小さい国においては計画経済のほうが市場経済より良い場合も多いです
計画経済は規模が大きくなると末端の多様なニーズに対応しきれませんが
小さいうちは自由市場という荒波にもまれるとあっという間に大国に潰されてしまいます
有名なチャウシェスク政権でさえ、革命10周年の時点での国民アンケートでは
60%以上の人がチャウシェスク時代のほうが良い生活だったと答えています

無政府主義と国粋主義、どちらが優れているかというのは余り意味が無いと思います
無政府主義者が国を腐らせることもあるでしょうし
国粋だからといって国のためになるかというのは別問題です
そもそも無政府主義は国を超えた全体主義ですし

独裁と民主、どちらが良いか、今でこそ民主主義を広める、といって
世界中の独裁国へ民主主義を布教していますが
国が幼い、成熟していない国にとっては独裁のほうが良い場合もあります
多くの場合独裁が世襲で続くことに弊害が多いだけで
一時の独裁は必要な場合もあるでしょう

キューバは本来の共産主義を目指す社会主義をやめてしまった国です
観光資源、人的資産の育成など公共投資を計画的に行って
周辺の資本主義国にお金を落としてもらう、という形の国なのです

本来の社会主義は共産主義に至るための途上であって
マルクスやらレーニンやらが見たら嘆くような国かもしれないですが
これはこれで十分今の世界情勢から見ればありだと私は思います

実のところ本来の共産主義思想においては独裁の世襲などありえません
最も優れた独裁者を国民から選出し、それに当てるのが正しいあり方です

ソビエトの末期において、本来の計画経済をより推し進めるために
ゴルバチョフ書記長が「グラスノスチ」といって経済の透明化を進めました
当時のソビエトは富の再分配において不透明な部分が多く
それを透明化し正しく分配し国民が納得できる社会主義を目指しましたが
実際のそれを阻んだのはソビエト共産党の利権でした

日本はかなり無政府主義的で計画経済の国でした
教育でも無政府主義的立場をとることが先進的、進歩的であるとされていましたし
経済のほうも公共投資など政府による計画経済をとる国でしたが
最近になってそれらが国粋的、市場経済的に傾いてきています

念を押したいのはどちらが優れているというわけでもない、という事です
執り行う人や国がどう動かすか、その良し悪しこそが評価される点なのです

私のような人間だとどうしてもある軸において
重きがあることが優れているような錯覚にとらわれてしまいますが
印象に惑わされないようにしなくちゃいけないな、と思ったとか思わないとか