リハビリ微調整

navy006588.png

blender 手と股間の調整をみた「」さんから
土手が低いよ、とのアドバイスと資料を頂いていたので
リハビリも兼ねて微調整してみました
ほんとにそこだけの微調整

色々な騒動の中ひっそりと「CG定点観測」さんが更新を停止されていました
pixivのような投稿SNSが瓦解する可能性がでてきた所だったので
残念に思いつつも、今までお疲れ様でした、と言わせて頂きたいです
このページを見に来てくれる新規の人のトラフィックの多くは
実は定点観測さんからのものでした
思えばネオランガで良く検索しては新作がないなぁを繰り返したり
思い切って「ネオランガで更新してます、補足して!」とメッセージを送ったり
それ以来ネオランガでちゃんとした?絵を上げると補足してくれるようになったり
感謝感謝でした、今まで本当にありがとうございました

あまり他で書かれない現代アート騒動とキメこな問題の解説

ハイコンテクストな素材のあらまし
色々やらなくちゃと思ってることが有るのに文章書いてるのはどうかと思うけれど


どういう経緯で荒れているのかをまとめているblogとかが一杯出てきて
もう経緯は調べれば十分分かるようになったと個人的には思ったので
他ではあまり書かれていないnov君と今回の騒動の関係について、
ギャグがどう面白いかを説明するような野暮な部分ではあるのだけれど
そこで使われている素材がどういう経緯で使われるようになったのかを紐解くことで
nov君がどういう集団なのかを理解する手助けになればと思って筆を取ってみる

まず最初に前エントリーにあるように画像掲示板の人物集団は
作品を介して会話する集団だという事を心にとめておいて下さい


素材:キメこなとは

画像掲示板img鯖では一時期泉こなたが貼られると掲示板を荒らす嵐が居ました
彼はこなちゃんの画像に対して「死ね死ね死ね死ね・・・・・々々」と
ずっとポストし続けるので「こな死ねさん」と呼ばれていました
ある時こな死ねさんをからかう意図で彼が「死ね死ね」とポストしている時に
あえて「一見こなたに見えるけれど別のキャラの絵」というものを描いてアップして
そこにこな死ねさんが書き込みに来るか見極めるという遊びが流行りました
それが一連の「こなコラ」というこなちゃんと同じ右手を挙げたキャラの成り立ちです
そして当時は名前がまだありませんでしたが複数種類のこなた風の絵同士を
さらにコラージュでくっつけてキメラの状態にしたこなた「キメこな」ができました
(これも前述の画像コミュニケーションだと思います、鯖は違えど源流は同じなのです)

(補足追記:imgにはスレ内画像レスが無いのでこな死ねさんがいる時にカタログをこなたっぽい物で埋めていく事になり
カタログが同系統の絵で埋まる事が祭りの合図になったりします、某所のアンドリューWKやいたるスライムなどもこの類です)

結局こな死ねさんは管理人にメッセージを送る準備板まで荒らしたためアク禁になり
imgが荒れることもなくなったので住人はこなコラ、キメこなを忘れていきましたが
mayや4chanに転載され、特に4chanで外人に人気が出てmoetronと呼ばれ
新作を作られたりしながらひっそりと生き続けていました

そして海外や複数の画像掲示板で知る人ぞ知るキャラになっていたキメこなを
カオスラウンジという団体の梅ラボという人が目を付けました
梅ラボは自作品に複数のアニメキャラクターをバラバラにコラージュするという手法を使っていて
キメこなのようなアニメキャラの複合体が整合性を持って成り立っている状態を目指してたので
自分の作品としてキメこなを勝手に売り出してしまう事件が起きました
それが今回の騒動の最初に当たる「キメこな騒動」なのです

その後どうなったかについてはまあ、纏めblogなどを読めばわかると思うので
私が書く必要もなさそうですが、騒動の背景はこんな形で生まれました


素材:味の素、味塩、白面の烏帽子の男、開き

上の騒動が起きた際にカオスラウンジは「ネットの作品はすべて素材である」とし
自作品に勝手に利用すると宣言しました

画像掲示板novは複数ある二次裏と言われる画像掲示板の中でも突出して
前エントリーにある「画像コミュニケーション」に特化した掲示板でした
6年ほど前にアップされた1枚の「嵐集団のオフ会の様子」と呼ばれた写真を弄り続けて
(実際には掲示板嵐達とは関係なく謎のおじさんでしかなかったのですが)
コラージュを使った会話をし続けたために管理人に画像掲示板ごと消されたような背景がありました

そしてその「素材宣言」によりカオスラウンジの写真を自由にコラージュしても誰にも咎められないと解釈し
別の鯖である画像掲示板mayという場所で再びコラージュによる会話を始めました
それを過去にnovを掲示板ごと消した管理者が「黙認」した為にmayに旧novの出張所が出来ました

しかしカオスラウンジのネットにある写真類をコラージュしてみても
どうも最初の「謎のおじさん」ほど「うま味」がないと言われだしました
(彼らは元々謎のおじさんを「うま味紳士」と呼んでいました)

そこで味が薄い>コラ素材に味塩を使ってみる、という遊びの流れで味塩が使われました
面白味がない>白味がないなら白面にしてみる>平安風なので烏帽子を被せてみるという遊びで素材も生まれました
また、元々1枚しかない謎のおじさんの斜め向きの写真から正面の顔を作る過程で
顔の中央から「開いて」正面顔のように見せるコラージュ手法が根付いており
うま味のないカオスラウンジの面々を面白くできないかと色々な素材を開いてみる遊びも生まれました
プハプハ鳥などもこの流れから生まれました)
1枚しかない写真から怒っている顔を表現するために顔を赤く染めるコラージュ手法が元々ありましたが
白面烏帽子の男(黒瀬に対して白瀬と呼ばれる)を赤く染める際に顔は既に白くて染めれないので
烏帽子を赤くしてみる>味の素の瓶に似ている、という流れで味の素の瓶が素材化されたりもしました
また、「mayは独立した別掲示板なのでnovのノリは違う」と反発する住民(?)の発言を受けて
ノリが違う>アラビックヤマト糊>セメダイン、などという画像を次々に貼られて素材になる流れも生まれました

nov君は常々「テキストを書き込む暇があったら1枚の画像をアップしろ」と言っており
基本的に誰かが何かを書き込んでも返事は画像アップでしか行いません
当時ウォッチされていたカオスラウンジの一員がtwitterに「すしなう」と書き込んでいたのを見たmay住人が
こちらにケンカを売ったラウンジの当事者がのんきにすしなうなんて書き込んでると炎上しそうになるのを余所に
nov君はただカオスラウンジのアップした食事中の寿司写真を素材にロケットに乗せて飛ばしたりしていました

すしなう晒される>今だ寿司だ!とビビビッとくる>多数のnov君が同時多発的に寿司ロケットを撃ちあげる
(もともとバカな書き込みがあると取りあえず花火代わりに打ち上げるという遊びが流行っていました)
という天丼的な面白さが、最新の流れを追って見ている野次馬の間に生まれてしまうのです


それを踏まえて今回の騒動

今回のpixivの騒動()も荒れた原因はpixivが梅ラボ擁するカオスラウンジに
pixiv上にアップされていたユーザーの画像を素材化して使うことを黙認しただけでなく
カオスラウンジとコラボ企画までやり、社長がパトロンになったりした事が背景なのですが
現在「現代アート」タグで起きている事は上にあるようにネタを弄って作品で会話する事を許されたnov君が
その時々のネタへの「レスポンス」として文章の代わりに「作品」をアップしているだけなのです

絵をアップするような人は反応を見て反応が返ってくるのが楽しい、という面が多くあり
絵に即座に絵が返ってくる、誰かの絵に即座に絵を返すと流れが生まれる、を繰り返していくうちに
次第にスタンドアローンなのに同じような流れを生むブレインのない集団になってしまうのです

pixivの現代アートのネタが大量に被るのも大勢が直前のネタに対して
即座にレスポンスとしてネタにしてアップするからで、それを見ることで野次馬は天丼的な面白さを感じるし
同時に自分がアップしたネタが即座に別人に弄られて天丼化することでアップした人も反応に感化される
という流れに巻き込まれてネタアップした人が感染して自分も他人のネタに即座にネタを返すようになり
次第に画像コミュニケーションを会得したnov君化していくのです

これを理解できない外部の人、なんとネットの寵児と自称するカオスラウンジさえもが
「話し合いたいから代表者を出せ」とか「騒動を統率する人物がいる」とか言い出したりするのですが
上にあるように感染した個々人による潮流でしかないのでそれは無理なのです
カオスラウンジはカオスラウンジ宣言でこの現象がネットのムーブメントだと自分で書いており
顔のない有象無象が作品を生み出す流れがアートで、それを自分達が売り出していくと言っていましたが
実際にはカオスラウンジ宣言のその部分はただの攻殻機動隊の受け売りで
本質を全く理解していなかったのではないかと今回の騒動から見えてきたように思えます


また長文ごめん!

追記、twitterでKyogoさんとお話しした際に現代アートとキメこなちゃんの話題になって
現代アートとは人の普遍的なテーマを扱ったコンセプトがあって
それについての思索を呼び起こすものである、という話を頂いた際に
ではnov君は文字から解放されたコミュニケーション、人と人との対話という普遍的なテーマを偶然扱った
ノンコンセプチュアルな現代アートと言えないだろうか、という提案をしてみた

その教唆としてキメこなちゃんは「こなたと認識できるか?」という
キャラクター性のボーダーを探るコンセプト対話のなかで出力された物で
それらを複合して作られた誰でもないアニメキャラ「キメこな」が偶然4chanに転載され
anonymous達にMoe+Metatron(萌複合体)として誰でもないアニメキャラ「moetron」と名付けられた事は
言葉の通じないanonymousへ作者の説明しなかったコンセプトが伝わり偶然同じ名前を付けるという
共時性、シンクロニシティーが起きており、これを現代アートと言えるのではないか、とお話ししてみました

キメこなちゃんの背景を知らなければわからないというのは受け手の思索を拒絶する側面のある
ハイコンテクストな部分なのでアートであるとは気づき辛いのですが、知ってさえいれば
この二次裏で生まれたキャラが海外にわたって同じコンセプトの名前が付くという共時性を
アートと捉えられる=キメこなは現代アート と言えるのではないでしょうか?
つまりその手法の元になった「画像による対話」が行われているpixivの現代アートタグの現象も
個人的には現代アートと読み解けるのではないかと思います

今回の騒動の表と裏

なんでpixivでやるのか分からないという人もいるみたいだけれど
色々な人がpixivに投稿していた絵を素材に梅ラボがコラージュを作っていて
運営がその梅ラボがいるカオスラウンジとコラボレーションしていた問題が基にある
pixivの投稿を使われた被害者が運営に訴えても梅ラボ作品が掲載され続けた事が発端

そんな運営に対してこれを切欠にアカウント剥奪されたなら退会してもいいやと思った絵描きさんが
今回のコラージュ問題を茶化して絵を描き始めて
絵描きさんが描いたキャラが可愛いから描いてみようと他のユーザーにも広がり始めた状態

でもこれは結局は表の顔であって裏にあるのは
pixiv社長がインタビューで語っていた現代アートの発表場にしたいという思惑だと思われる
この思惑があるからこそユーザーの苦情を放置してまで梅ラボを擁護したり
村上隆を呼んで写真なのにランキング1位にならせてみたりしていたわけで
これらを現代アートの常連ランカーとして呼び水につかい
発表場としてユーザーを呼び寄せたいという思惑があり続ける以上
写真はダメ、と言い出せないしコラージュがダメとも言い出せない
(現状写真コラージュをアップすると運営削除されますが)
ひっそり梅ラボや村上隆の作品から現代アートのタグを外したのも
タグによるランキングロックをかけてる為ランカーになれなくなるからで
運営は現代アート嵐が去ったらランクロックを外して再デビューさせる心積もりなのでしょう

しかし問題はここで嵐と思っている人たちが実際には楽しくてやっているだけであり
たとえある程度鎮静化してもちょっとした切欠があれば再燃する
嵐のような彼らは元々イラストコミュニケーションを体現するような集団であり
誰かが作品をアップするとすぐさまそれに呼応したネタで別の人が作品をアップする
リアルタイムに作品で会話をし続けたせいで画像掲示板を追い出された集団なのです
いま現代アートタグは彼らの会話で構成されていてどこかにブレインが居るわけでもない
ただ個々人が作品による会話を楽しんでいるだけなのです
ちょっとでも楽しいと思った人が同じようにコラボレーションした作品を上げてみれば
それに呼応して流れが出来ることに気づき、作品による会話方法を知った人は
もう彼らと同じように、作品で会話する方法が対話手段の一つとして感染し、確立してしまう
一たび同じようなムーブメントが起きれば呼応する大勢の中の一人になってしまうのです
これは奇しくもカオスラウンジ宣言にある

そこは常に、膨大に、匿名的な想像力がうずまき、作品未満の作品、コンテンツ未満のコンテンツが現れては消える場所であり、にもかかわらず、作者性に目覚めてしまった有象無象の集う場所である。 増殖を続けるアーキテクチャは、アートの神秘性を認めない。そこでは、すべてが可視化され、分類され、操作可能となる。 内面などない。知性も感性も、すべてはアーキテクチャ上で、システマチックに組み立てられてゆく。

の体現なのです
現代アートタグは事実上彼らの対話手段になっていて
彼らを追い出すには彼らの対話手段を禁止するしかなく
pixivが絵描きより現代アートを優先したいと思っている限り根絶は不可能で
ちょっとした切欠で再燃する問題として今後ずっと抱え込むことになると思われます

久々に長文書いてみた

追記
色々なところで言われてはいるけれど今回の出来事の補足的なものにリンクを
http://www.ted.com/talks/lang/jpn/derek_sivers_how_to_start_a_movement.html
http://togetter.com/li/164101
http://togetter.com/li/162335
http://blog.livedoor.jp/hutabatosiaki/archives/1599988.html
最初の方だけ読めば十分わかるよ!
ただまぁ経緯は上のリンクだけれど本質は今回の記事にあると思うのです
カオスラウンジがどういう志なのかというのをカオスラウンジの側から見たい人は
http://togetter.com/li/155479
http://aar.art-it.asia/u/admin_edit1/1Nztk67sP3ZvIjUiWOLd
上が要約、下が原文です

なんともない日記

大島渚監督か誰かが作家が晩年エロに走るのは
創作欲はあるのに意欲が無くなったのを埋め合わせるため
とか言ってた気がするのですが
自分も欲はあるのに意欲が無くて
それを補うために直接的なエロばかりやってきました
でも実は直接的なエロより間接的な奴の方が好きなんです

去年末あたりは結構調子がよくなってきてたので
そろそろ普通の創作活動とかもできるかなと思ってた矢先
(それでも絵は6年ぶりに描けましたが)
ここ何週間かまた調子が悪くなってきました
調子良くなって来てほのぼのエロとか普通のとかも
やりたい気分だったのに残念です

NavyFieldの公式戦で無理してるせいかなとも思うのですが
折角ここ暫し調子よくなってきていて
お面の新作とかもあと1~2年くらいしかお面制作できなさそうですし
何かやらねばとか考え出した矢先だったのでちょっと悲しい感じです
実際作るものが無かったのであんまり考えは進んでなかったんですが…

先週は公式戦も休んだので元気が復活することを願いたいですね

うみねこ六連密室

自分が解いたわけじゃないですが
終わりと始まりが重なる、の説明があんまり外で見かけなかったので

6つ密室があることで発生する心理的死角がこのトリックではないかと、
で、単純化して3つの密室A,B,Cとした場合に

Aで人物Aを殺し、部屋Cの偽の鍵C’を置いて鍵Aをかける
Bで人物Bを殺し、部屋Aの鍵を置いて鍵Bをかける
Cで人物Cを殺し、部屋Bの鍵を置いて鍵Cをかけ、鍵Cを隠し持つ

これで状況は完了、犯人は部屋C以外を入り辛い場所にしておく
(Cを1階窓あり客間、Bを2階部屋、Aを離れの礼拝堂)

で、館を捜索し始めて最初に部屋Cの窓を割って入り、鍵Bを拾う
鍵Bを用いて部屋Bを開け、鍵Aを拾う、最後に鍵Aを用いて部屋Aを開け、偽の鍵C’を拾う
そしてCの部屋に戻るが最初に窓割って入ってドアから出ている為、鍵C’を使わずに入れる
つまり使わないので偽物の鍵でも気づかない
あとは折を見て鍵Cと偽鍵C’をすり替えれば証拠が消える

と言うトリックかと、3つだと最後の鍵使ってなくね?と気づくかもしれないが
6つもあるとまたか、またか、となって最後まで同じだと思い込む可能性が高い
また、合鍵はない、との赤字も偽の鍵までは禁じてないのでセーフかと
この場合部屋Cに窓割って入ろうと言い出した留弗夫が怪しくて
アニメでは窓の外から客間Cの死体紗音が見えていて、秀吉が不審に思って割って入っている

最後の密室と最初の密室が重なっていて最初の密室チェックを忘れる、というのが
終わりと始まりが重なる、の説明かな?とか

うみねこ8章を読み終えて

コミケ終えてまた風邪ひいた、毎年冬コミケで風邪を引く…

寝ながらEp8を読み終えたのですが
うみねこはメタフィクションとして読むことが正しくて物語上の結末は嘘であり
メタフィクションとして読んだ場合別の真相が出てくるように思えました

追記で今回思った事ネタバレ

続きを読む

多少面白みを付け加えれたら良いのですが

ちょっと前の日記で言及したナチスのたとえ話について
読んでも面白さを感じられる解説が出来たら良いかなと

あの話はニーメラーの詩といわれるお話で
共産主義者が攻撃されたとき私は声を上げなかった云々という文章で始まり
最後に私が攻撃されたときに誰も声を上げなかった
という落ちで締めくくられる話です、ニーメラーは教会の人間でした

で、時代背景とかを知らないと分かりづらいんですが
最初に共産主義者が攻撃されたとき、教会の人間である「私」は
実際には声を上げなかったどころか圧倒的な支持をしています
これは共産主義が神を否定する碌でもない主義だったからです

ドイツも自分たちが熱狂的なナチ信奉者だった事を隠している節があって
この話もその辺の背景を踏まえないと単純に順番に弾圧されましたという
物語にしか読みづらい部分があると思うのですが
この話はドイツ全体がほぼ皆ナチ信奉者だった事と
教会が共産主義者を弾圧することを後押ししてた事を踏まえて考えるに

弾圧する側が自分で気づいて異議を唱えなければ
弾圧される側は常に弱者なので絶対にひっくり返せない
そして声を上げないどころか得てして弾圧する側に回ってないですか?

という教訓なんではないかと私は思っています
実際この時弾圧された共産主義者でさえ多数になれば教会を弾圧してましたし
ユダヤ人も自分がメジャーになった時弾圧する側に回ったりしました
大事なのは多数になった時に弾圧に異を唱えられますかという話なのではないかと
なかなか許容するのは難しいことだとは思いますけれど

これで最後にしたい

ネットで見えている範囲が実際のマジョリティかは自分には分からないんですが

昔、児童ポルノが規制されるという段になって
漫画はセーフだし反対する三次ロリータ好きは異常者という大きな声に押されて
実在児童のポルノは取り締まられてもやむなし、という論調に見えました
当時何度かその危惧を書いてきましたが自分はその考えは相当危うい思考だと思っていて
そもそも児童ポルノがなぜ取り締まられるか、についての大前提みたいなものが
考えられていないのではないか?と思えてなりませんでした

自分はたとえ実在する児童がモデルのポルノでもポルノの表現としては守られるべきで
児童ポルノは自立が出来ていない、保護者が必要な弱者が拒否することも出来ずに
強制的にポルノ生産に従事させられている事を福祉の観点から問題視すべきだと思っています
ポルノ表現、猥褻なものの中で過剰だから規制するというのは危険だと思うのです

ポルノ表現としての土俵に立っている以上、二次元三次元とかそういう区分はあまり関係がなく
多くの一般人からは必要ない、目をひそめたくなる物でしかないと思うのです
私はロリコンなのでその時切り捨てられる側だったせいもありそういう視点に敏感でしたが
その時切り捨てた側の漫画ポルノ愛好家たちは鈍感だったのではないかと感じていました

そして今回また、性表現漫画以外はセーフだから反対するのはポルノ好きな異常者
一部はやりすぎであり規制されて当然、という声を良く見かけて
もちろんそういう声を上げている人が声が大きいだけのマイノリティであればいいのですが
本気で漫画表現のうち性表現だけが異常なのだから一部は規制されて当然と思っていて
自分たちが立っている側が使っている表現、たとえば暴力的、反社会的な表現は
大丈夫だと思っているなら相当危ういと思うのです

こういう線引きで妥協点だといって一部を差し出して自分の立っている側は安全だと思い込むのは
線引き自体がその時の情勢で簡単に移動することが想像出来ていないように思えて仕方ありません
世の中の趨勢が「漫画は公の秩序や道徳を乱す、低俗で必要ないから規制すべき」に傾いだら
漫画すべてが表現の一部として切り捨てられる事になる、というのを笑い話だと思いますか
世の中の趨勢を「国家が、権力が」に置き換えてみてください
漫画は世の中ですでに大きな勢力だから民主主義では簡単には切り捨てられないと思いますか?
今この瞬間はそうでしょうが性表現、殺人、暴力、賭博、飲酒喫煙、順番に切り崩していって
そういう表現が多く含まれてきた漫画フィクション愛好家は異常者という声の方が大きくなったら
また将来新しい表現が生まれて漫画が衰退していったときに、フィクション規制の一部として
既に古い漫画はフィクション規制の妥協点として表現全体を守るためだと差し出されたらどうしますか
世の趨勢で自分がマイノリティになって切り捨てられる側に回ったらどうしますか
ナチスの話はただ順番に規制されたという話ではなく大勢がナチ信奉者だったから起きたのです
気づいたら自分はナチ信奉者だから規制されない、と言う側に立っていませんか?

今回異議を唱えている漫画家や出版社は、恐らくポルノ表現そのものを守るためではなく
そういう一部の線引きをすることが全体の危険になる事を想像しているからだと思うのです
低俗に見える部分を引き合いに出してこれらは過剰だから規制されて当然とか
条例に反対する人間に対して極論、考えすぎ、過剰反応、妥協点や落し所を見出さない傲慢だとか
売り上げ優先の拝金業界だとかの論調をみて感化されてしまいそうになったら
自分がマイノリティ側になって妥協点として切り捨てられる時の事を想像して欲しいのです


あんまりこういう話題書いても読んでる人が不快になるだろうし
エンターテイメントじゃないから楽しみが欲しくてここに来てくれている人を不快にさせるようで
出来るだけ書きたくはなかったんですが、やっぱり書いておかなくちゃいけない気もして
こういう事書き出すと止まらない方なんで、出来ればこれっきりにして
毎回開催されていたコミケが実際には真夏の夜の夢のような情熱的で儚いもので
自分の誕生日の翌日に可決された条例が思い返したときに分岐点だったりしないように願っています


追記として区分の問題であり過剰反応だという話について少しだけ反論を
10年以上昔、漫画規制される際に調べたので古い情報かもしれませんが
都の不健全図書指定を雑誌が受けた場合コンビニで販売が出来なくなり
3回指定を受けると廃刊するという制度があり、今も運用されている筈です
そして当時から特定の出版社が懲罰的に連続指定されているのではという懸念がありました
実際に連続指定される事例があり、何故指定されたかが不透明で
事実行われるかは別として袖の下を要求されて従わない場合に指定されるなどと言うことが
起きる可能性のある制度であるという事が問題視されていました
今回の条例も同じような恣意的運用の可能性を残しています
一般流通の本が成人指定流通にしか載せられなくなるというのは死活問題で
それを懸念して萎縮したりするのは避けられませんし
運用者が誠実であることを期待する制度というのは良くない制度だと思います
そもそも規制というのは読者が編集部に抗議して受け入れされる物であって
権力者が出版社に言うものじゃないのです

少女とその甥っこ少年の近親姦と性的倒錯を賛美するページ

うちはそういう内容です
違法な性行為描写の禁止という場合
法律で禁止されていない国が舞台だとどうなんですか
違法になるより過去が舞台の場合はどうなりますか?

あまり思想的なことは読む人に嫌悪感を与えるだろうと控えてましたが

日本の漫画アニメが受けているのは
玉石混淆の雑多な取るに足らない下らないものがいくらでもあって
多様性に満ちているからだと思っています
一見下らない本に見えてもそれが受け手にどういう影響を与えるかは
千差万別であって低俗で悪影響しかないと一方的に決めるのは
仮に本を読んだ人間でさえ、それを良い物悪い物に分けたとしても
他人にまで押し付けるのはあってはならないと思うのです

その昔、ソ連の映画はとてもお金が掛かっていて
他の国では作る事が出来ないような内容でした
会戦シーンを取るために国が衛星を飛ばしてくれるのは
多分ソ連のような国家くらいだったと思うのです
しかしそれはすでに世界中が雑多な映画に満ちていて
それらに勝つために一点突破的に統制支援する必要があったからです
後追いのソ連ではアメリカのような商業映画に対して
同じようにお金を掛けていては勝てないからです

日本は漫画アニメにおいては先駆者であり
後追いの国策統制支援に追い立てられることはあっても
自ら多様性を狭める必要はないのです
上記ソ連映画もそうですし、たとえば韓国は漫画に国策で力を注いでいますが
代わりに国の支援する国にとって都合のいい漫画以外については
規制が大きく自由な表現が出来ません

昔、サムライスピリッツというゲームがありましたが
出た当初、日本版は血が出て身体が切れる演出があって
海外版は白い液体に差し替えられていました
今は逆に日本版で体の切断演出がなく、海外版にあるようになっています
アメリカなどでは50年代頃から表現規制について厳しく取り締まったところ
メディアの多様性が失われて競争力をなくしてしまった、という反省があり
年齢制限さえあれば、その中では表現についての規制は緩和される方向に進んでいます
最も子供向けは非常に厳しく、ドラゴンボールやワンピースがそのまま子供向けに放送できませんが
少なくとも表現全体について規制を行うと競争力を失うというのがアメリカが学んだ反省点です

日本がもし漫画アニメ、ゲームなどを支援するというのなら
行うべきは多様性を広げるための支援であり
国家が統制するような方向であれば支援はしない方がマシです
ロリコンフェニックスがロシアで大人気とか誰が分かっていたでしょうか
妖獣教室が海外アニメで人気があるとか?
国家が売り込むことじゃないというのは分かりますが
売り込みたいからと国が都合の良いように綺麗な漫画へ統制しようとすれば
多様性と価値が失われてしまうのです
個人や団体が低俗だとして多様性を規制しようというのは間違いです
多様性には一見低俗なものだって含まれるのです
多様性に価値がある、というのは間違いでしょうか

ドラゴンボールやワンピースをそのままでは子供が見れなくなるのはどう思いますか
流血が、暴力が、喫煙が、飲酒が漫画表現から規制されたらどう思いますか?
反社会的性表現規制の延長にそれら反社会行為全般の規制があるとは思えませんか?

暴力的、反社会的、規範に反する内容が、結果的にどう子供に影響を与えるかは
千差万別で神のみぞ知るというのが正しいのではないでしょうか
本人が見たくないものをうっかり見ないように分別する必要はありますが
たとえ大人の目から、性趣向漫画が、不良漫画が、暴力漫画が、賭博漫画が、
低俗に見えて悪影響しか与えないように見えたとしても
子供が真に欲して努力したなら手が届く範囲にあるべきだと私は思います

そして何より、自分はそういう低俗なものが好きなのです
それを奪わないでください